一枚の年賀状から始まる、男と女の行き着く先を描きます。
序 東京にて
季節は冬。十二月だ。それはどんな人でも忙しい季節でもある。
そんな中、俺は人と待ち合わせるため喫茶店に入った。
時間は夕方。もう外は暗くなり始めていた。店内は程よく混み合い、客がそれぞれの席で思い思いの会話を繰り広げている。
そこは四年前に俺が東京で働いていた頃、よく利用していた店だった。
俺は改めて店内を見回した。
古びた天井、若干茶色がかった壁紙。何もかも当時のままだ。
──変わらないもんだな。
俺は妙な事で感心し、空いている席に座りタバコに火を点けた。
今時タバコを吸うにも場所が限られている。
そういった意味で、この喫茶店が当時と変わっていなかった事に俺は感謝した。
「お待たせしました」
そっとテーブルに置かれるブレンドコーヒー。
年の瀬の寒空。暖房の効いた店内。
ここだけ世界から切り取られたような、そんな雰囲気があった。
俺はかすかに波打つコーヒーカップの表面を見つめ、茶褐色の液体に歪んで写る自分の顔に、これまで何度も自問自答した疑問を繰り返した。
──俺がここにいるのはなぜだ?
もちろん目的はある。
理由もある。
だがそれらに自信が持てない。
今から五年前。一緒の職場で共に働いていた女性。俺はその彼女を待っている。
俺は自問する。
何のために? 会ってどうするんだ?
答えなどない。いや、既に出ているのかも知れない。
──俺の選択は間違っているのか、それとも。
俺だけじゃ答えは出ない。
彼女が来ても答えは出ないかも知れない。
俺は一枚の年賀状をショルダーバッグから取り出した。
──そうだ。
俺は会わなければならない。
お互いの空白を埋めるために。
俺と彼女が一歩前に進むために。
第一話 一枚の年賀状
「祐一ぃ、年賀状来てるわよ」
新年早々、母が俺を階下から呼びつけた。
俺は頭が半分寝込んでいる。年末年始の深夜の特番を見続け、ほぼ徹夜状態だったからだ。
実家住まいの俺は、一階のキッチンのテーブルに無造作に置かれた年賀状の束を手に取り、一枚一枚斜め読みしながら二階に続く階段を昇った。
毎年届く年賀状の枚数はほぼ決まっている。会社の人間数名と友人達。多くても十枚かそこらだ。
と──。
それは一枚の年賀状だった。
「え──?」
俺は一瞬で目が覚めた。
差出人は一条彩。
二年前、俺が東京で働いていた時の同僚だ。
俺は震える手で年賀状を裏返した。
可愛らしいフォントで『あけましておめでとうございます』の文字が躍っていた。
コンビニなどで売っている既製の年賀状ではない。
手作り、と言ってもパソコンで打ち出したものだ。干支の可愛らしいイラストが新年を祝っていた。
──一条さんらしい、かな?
ここまでは俺は平静を保てた。
だが、その年賀状の一番下に書き添えてある短い文で目が止まった。階段を昇る足も止まった。
そこにはこう書かれていた。
『お久しぶりです。お元気でしたか?』
一応元気ではある。ちょっと眠いだけだ。
それに確かに久しぶりだ。
俺が東京の会社から去って二年経つ。去年は一条さんから年賀状はこなかった。それがなぜ今年になって年賀状を送ってよこしたんだろう?
かつての同僚とは言え、一緒に働いた期間は一年程度だ。
俺は当時の事を思い出しつつ、自室の炬燵の上に年賀状を広げた。
あの時の事。
一条さんが配属されて来た時の事を。
2
「……と言います。よろしくお願いします」
緊張のためか声が小さく良く聞き取れない。辛うじて分かるのは、女性の声だという事くらいだ。
当時、東京の大手メーカー系のシステム開発部に出向していた俺は、部内会議で紹介された新人の女性の名を聞きそびれた。
やむなく隣にいた巨大な男性の先輩に尋ねる。先輩が身動きする度、会議室のパイプ椅子が軋む。今にも押し潰されそうだった。
「あのなー高梨。お前、ちゃんと聞いてろよ」
先輩はそんな口調とは裏腹に、手帳に書き殴ったらしい彼女の名前を見せてくれた。それは非常に難解な文字で『イチジョウ アヤ』と書かれていた。
「なんて字書くんですかね?」
「それは本人に訊けよ」
先輩は答えは素っ気ない。
興味ないのかな?
少なくとも自分の会社、そして自分が所属している部署に新人が配属され、さらにそれが女性となれば興味が湧かない訳がない。
とは言え、部内会議の末席に座る俺が手を挙げて「何て字を書くんですか?」なんて質問を出来る訳がない。俺はこの会社の人間ではない。他社から出向し常駐している人間だ。会議には出るが、正社員とは立場が違う。さらに言えば、末席が故『イチジョウ』さんの顔すら見えない。
──ネームプレートかIDカード見れば分かるだろう。
その時はその程度の感想しか持ち合わせていなかった。
珍しく短めに会議が終わり、俺と先輩は自席に戻る前に一服するため、一緒にリフレッシュルームに向かった。
壁が茶色く色づいたリフレッシュルームには先客がいた。課長だ。
「お疲れ様です」
俺は定型文を口にし、軽く会釈した。そして自分のタバコのパッケージを見て、残弾ゼロな事に気が付いた。
「藤木さん、タバコ余ってます?」
俺は一緒にいた先輩に声をかけた。一本恵んでもらおうと思ったのだ。
だが藤木さんは「ああ、スマン。俺もこの一本で空だ」と咥えタバコのまま応じた。
──しゃーないな。
俺は矛先を課長に向けた。
「鈴木課長、すみません、タバコ一本恵んで頂けますか?」
鈴木課長は黙ってタバコのパッケージを俺に突きつけた。
分煙機を挟み紫煙をくゆらせる藤木さんと課長の対比が面白い。巨漢の藤木さんとスリムな鈴木課長。身長は同じくらいだが、ただでさえ狭いリフレッシュルームの専有面積がまるで違う。
「ありがとうございます」
俺はそのパッケージからそっと一本抜きだし、礼を言いつつタバコに火を点けた。
だがキツい。普段1mgのタバコを吸う俺に14mgは大分キツい。
「課長、よくこんなキツいの吸えますね」
「何を言う。これくらいじゃないと吸った気にならないだろうが」
それは分かる。俺も吸い始めはヘビーなタバコから入った。
だが最近になってタバコが健康によろしくないと気づき、軽めのタバコに替えた。吸い始めは空気を吸っているような感覚に陥ったが、慣れるとちゃんとタバコの味がするから不思議だ。そもそもタバコを吸っている時点で健康云々は気休めに過ぎないが。
「藤木、丁度いい。今日から『イチジョウ』を下につける。面倒見てやってくれ」
「は? わたしですか?」
藤木さんが驚いた表情をした。まさか自分にお鉢が回って来るなんて考えていなかった。そんな顔だ。
「太田も、白川も今抱えているプロジェクトで手一杯だ。まぁお前が暇って訳じゃないが、高梨もいるしな。もう一人増えても変わらんだろう?」
課長は俺の顔を見た。
「丁度来週から新規案件が立ち上がるだろう? そこから入ってもらえば仕事の流れを見やすいと思ってな」
俺は課長の問いに「そうですね」と無難に応じた。
「あ、お前そんな事言う? じゃ概要設計任せるからな」
「ええ? いやいや藤木さん。俺が一人で出来る訳ないでしょう?」
「いや。高梨もここに来て一年だ。そろそろやれる範囲を広げるべきだ」
課長が藤木さんの後押しをする。
俺は窮地に追いやられた。
とは言え。
俺はここで一年やって来た。それなりに頑張ったという自負がある。
課長の言う通り、自身のスキルアップを図らなければならない時期に来たのだと思う。
──でもなー。
そんな重要な事、タバコ吸いながら決めるか?
俺は短くなったタバコを惜しみながら、灰皿に押しつけた。
「とりあえず、席に戻ってから相談しましょうよ」
一旦先延ばしにする。恐らく決定事項だろうが、まだ心の準備ってヤツが出来ていない。
この『決定事項』は、『イチジョウ』さんが後輩として俺の下につくのと同義だ。
それなりに覚悟やら色んな準備が必要なのだ。
*
席に戻ると『イチジョウ』さんと思しき女性が立っていた。しかも俺の席の前に。
会議中は全然見えなかったので、顔を見るのはこれが初めてということになる。
すっきりした顔立ちで、黒い髪の毛は背中に届く程の長さ。背は大体俺と同じくらい。俺は身長が低いので、女性としては背が高い部類に入るだろうか。
「お疲れ様です」
俺はそんな『イチジョウ』さんに、無難な挨拶を繰り出した。
すると『イチジョウ』さんも軽く会釈し、小さな声で「お疲れ様です」と返して来た。緊張しているのか、表情からは感情が読み取れなかった。
そこで会話が止まった。話が前に進まない。俺は大いに弱った。
「おいお前ら、いつまで見つめ合ったまま突っ立ってんだよ。お見合いじゃないんだぞ?」
藤木さんがニヤニヤしながら俺の肩をポンと叩いた。
「や、これはそんなんじゃなくてですね」
俺はなぜか狼狽えた。
「ま、俺みたいなオッサンには関係ないが、これも仕事だ。打ち合わせするから資料の準備頼む」
藤木さんは意味があるようなないような指示を出し、俺の隣の自分の席に座った。
「『イチジョウ』の名前はその字か」
藤木さんは『イチジョウ』さんのネームプレートを見て鷹揚に頷いた。
俺も藤木さんに倣いネームプレートを見る。そこに書いてある文字は『一条 彩』。これでやっと顔と名前の字が判明した。
後は仕事が出来るかどうかだ。
「藤木さん、資料って先週まとめたヤツでいいんですか?」
「ああ、それでいいよ。とりあえず関係者は俺を含めて三人だ。あーいや、課長が来るかも知れないから四部刷っておいてくれ」
「分かりました」
俺は席に座り、自分のPCを立ち上げた。
そこで背中に視線を感じた。
──ああ、そう言えば。一条さんはどうするんだ?
「藤木さん」
「ん?」
「一条さんは?」
「ああ」
藤木さんがたった今思いついたような顔をした。
「一条のPC、セットアップしなきゃな」
そう言って俺の隣の空席に視線を移した。
そこには箱に入ったままのPCやらモニタの箱が積まれていた。
──おおぅ……つまり俺にやれと。
「セキュリティ関連は後で担当者がやるが、設置やら接続とか初期設定は頼むわ」
「……分かりました」
どうせ他にやれる人はいない。ここはシステム開発を主な業務としている部署だが、PC自体に詳しい人は少ないのだ。
「じゃ、ええと」
俺は席を立ち、一条さんに向き直った。
「梱包解くところからだな。手伝ってもらっても?」
そこで思わぬ衝撃が俺を襲った。
「はい!」
短かくも元気のいい返事。そして何より。
一条さんが初めて感情を表に出した。つまり微笑んだ。
──結構可愛いじゃん!
それが俺の、一条さんに対するファーストインプレッションだった。
*
その後俺は、紆余曲折あってその職場を離れた。
主な理由は人間関係。ある人物と反りが合わなくなり居場所を失った。ついでに言えば通勤ラッシュ。よくもまぁ電車にあれだけの人間を詰め込めるものだ。人間自体を圧縮する技術でも発明しないと、そのうちどこの駅に行っても乗れなくなるに違いない。
もちろん慰留はされた。
課の中でPCに詳しい人間は俺くらいだったから、業務に直接影響しなくても細かなトラブルの対応は困るだろう。
ところが俺は自分がどんな評価をされていたのか、その話し合いの場で初めて知った。
創意工夫。出来ないならどうすれば出来るか。俺にとってそれは至極当たり前の事なのだが、他の同僚は違ったらしい。その点において俺は部長の目に止まっていたのだ。
だが俺はこの会社の人間じゃない。あくまで契約上常駐しているだけで、いずれ来る契約満了をもっていなくなる人材なのだ。
そう伝えると、何と正社員として迎え入れる用意があると言う。
これには俺も驚いた。
一瞬心が揺れたが、俺はもう心に決めていた。地元である宮城県に帰ると。
専門卒で就職しこの職場で約二年勤めた。まだ二十三歳。いくらでもやり直せる。その時はそう思っていた。
折しも季節は冬。年の瀬だった。
*
「高梨君さぁ」
先輩社員の白川さんが、俺の最終出勤日に声をかけて来た。事務所内ではなく廊下でだ。白川さんとは仕事で絡んだ事はないが、お互いPCに詳しいという事もあり、趣味方面で盛り上がる事が多かった。
「一条さん、気にしてるよ?」
「え? 何をですか?」
白川さんは周囲に誰もいない事を確認し、さらに声を潜めた。
「高梨君の事だよ」
──え?
俺は耳を疑った。
彼女は大卒で入社したので、高卒アンド専門卒である俺の一個上だ。しかも仕事でメキメキと頭角を現し、右も左も分からない新人さん状態からすぐに脱し、今はもうSEの能力として俺を追い抜いていた。ただ少々頭が固い。だがそれは経験値が足りないだけだ。
だから彼女が俺なんかを気にかけているなんて、露程も考えていなかった。
そもそも立場が違いすぎる。
一条さんはこの会社の正社員。対する俺は他社から出向だ。
学歴、能力、立場。どれを取っても釣り合うはずがない。
「白川さん、からかってます?」
「まさか。僕が冗談を言う人間に見えるか?」
白川さんはメガネの位置を直しながらそう応じた。
──確かに。
白川さんは真面目タイプで、滅多な事で冗談は言わない。言っても寒くなるだけだと自覚しているからかも知れないが。
「どうする? 話したいなら、僕が話を付けて来るけど」
俺は一瞬迷った。
本当に気にかけてくれているなら、そんなに嬉しい事はない。だが悲しいかな、生まれてこの方彼女の一人もいなかった俺はこの手の事に免疫がない。
仕事であればこそ対等に話が出来た。
だがプライベートでとなれば、勝手が違いすぎる。
それに──正直に言えば怖かった。
仮にそうだとして、一条さんにどう接していいのか分からない。
それに。
──今日で俺はここからいなくなる。今更だよな。
「いや──いいです。どうせ俺はいなくなる人間ですし」
そう。俺とこの会社との関係は今日で終わりだ。何をするにも遅すぎる。
「分かった」
白川さんは複雑な表情をし、事務所の中に消えた。
廊下には俺一人残された。
──静かだ。
既に私物は整理済みだし、上長や先輩達への挨拶も済ませた。後はここから引き上げるだけだ。
──このビル全体がもう、俺には無関心なんだな。
ちょっと寂しい気がした。
俺はそんな思いを振り払うかのように、ショルダーバッグを肩にかけ直し廊下を進んだ。
その先にあるエレベーター。そして正面玄関。そこを抜ければ、俺はこのビルに二度と足を踏み入れられなくなる。
──あっけないもんだな。
約二年。
色んな事があったが、働きがいのあるいい仕事だと思った。
クライアントと打ち合わせをし、概要をまとめ、ドキュメントを作り、スケジュールに沿って開発を進める。
クライアントとも上手くやっていたし、大きなミスもなかった。
役割は果たせたと思う。出来ればもう少しいたかったが、人間関係のトラブルは後を引く。きっとどんどん居づらくなるだろう。潮時だったのだ。
と──。
複数の女性社員の声が聞こえて来た。どうやら廊下に面している給湯室で雑談に耽っているらしい。
俺はそこを素通りしようとした。
だが。
「高梨さん、今日で終わりなんですよ」
その一言で足が止まった。
なぜならその声が一条さんの声だったからだ。
「彩、結構かわいがってもらってたしねー」
「お別れのプレゼントとか渡した?」
「いえ、それは……」
無遠慮な女性社員の声が一条さんを追い詰める。
「別に外国に行っちゃうとかじゃないんで」
そりゃそうだ。ただ三百キロ程北に行くだけ。新幹線なら二時間弱。東京〜仙台間なんてのはその程度の距離だ。
「でも会えなくなっちゃうよ?」
「それはそうなんですけど……」
どうにも煮え切らない。なんだろう? もやもやした感情が湧き上がって来る。
「彩はそれでいいの?」
その言葉は俺の胸に突き刺さった。
このままでいいのか? 俺は一条さんに最後の挨拶もなしに去ってしまっていいのか?
──いや。
なぜ迷う? 俺はここの人間じゃないんだぞ?
その迷いを払ったのは、他ならぬ一条さんだった。
「いいんです。高梨さんの選んだ道ですし。色々教えてもらって今でも尊敬してます。でも、もういいんです」
──そっか。
彼女は自分の立場を分かってる。俺がどんな立場なのかも分かってる。
俺は給湯室の面々に気づかれないように素通りし、エレベーターに向かって歩を進めた。
もう未練はない。
ここはもう俺の居場所じゃない。
どこか晴れ晴れした気分だった。
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