2017/06/30

カレイドスコープは魅惑する(試し読み)


いるかネットブックス様より配信されている電子書籍です。
『闇の祓い師シリーズ』として、次回作の構想を練っている段階です。
(早く出したいw)






 重厚なマホガニー製の机の上はその部屋で圧倒的な存在感を持ち、その上には年代も種類も様々な骨董品が雑多に積まれ、静かに主が戻るのを待っていた。

 唯一の例外を除いて。

 それは豪奢が装飾がなされ、一目で数百年の刻を過ごした事が見て取れる。

 それは思う。

 我はなぜここに在るのか。
 我は数多の人を愉しませ、ここに在る。
 だが我が在るべきはここではない。
 人が使ってこそ、人を魅了してこその我なのだ。
 我はここに居るべきではない。
 
 ——誰か、我をここから出すのだ。出さねば災いを呼ぼうぞ。

 その意思は邪気そのものだった。




第一話 祐一と結

「何してんだ、そんなところで」
 宗像祐一(むなかた ゆういち)は学校の帰り道、電柱にもたれかかって空を見上げている女の子に声をかけた。
 セミロングのちょっと色を落とした柔らかそうな髪の毛が背中に流れ、小顔で整った顔立ちな分、どこか物憂げな横顔が印象的だった。
 その女の子は祐一を見るなりつかつかと歩み寄り、祐一を見上げ、なぜか挑むような表情でこう言った。
「帰ってくるの待ってた」
「は? 誰を?」
 女の子は、ビシッと祐一を指差した。
「俺?」
 女の子はこくりと頷き、胸を張った。
「明日、お休みだよな?」
 この黙っていれば可愛い系の言葉遣いが乱暴な女の子は、祐一の幼馴染みで、名を桜木結(さくらぎ ゆい)と言う。
 祐一は高校三年で結は高一。二人は同じ一条学園に通う高校生だ。
「明日は確かに休みだけど、それはお前もだろう? それよりその言葉遣い何とかしろよ。せっかく素材がいいのに勿体ない」
「は? そ、素材……?」
 結は覿面に赤くなった。
「そ、そんな恥ずかしい事天下の往来で言うなっ!」
「恥ずかしい? そう思ってるなら言葉遣い直せよ」
「こ、これは癖だ!」
「何だよ癖って。まぁいいや。で何の用だ?」
 明日は祝日。学校はお休みだ。ついでに言えば、二人は帰宅部だった。
「分からないのか?」
 結はまだ祐一を睨んでいる。だが祐一にはその理由がさっぱり分からない。
「何かあったのか?」
 その一言で、結の目が一段とキツくなった。
「もういい!」
 つん。
 結は回れ右して、祐一を置き去りにして歩き出した。
 祐一は何が何だか分からないまま結に追い縋った。
「なぁ結。何かあったんなら言ってくれないと分からないぞ?」
「もういいって言ってるだろ!」
 取り付く島もなかった。
 ──なんだろ? 明日? 明日は祝日……。
 祐一はそこで思い出した。
 ──しまった……。
「な、なぁ結?」
 返事はない。
 ただ、結の背中は怒りのオーラに満ちていた。
 ──こりゃ完全に機嫌を損ねたな……。
 祐一はため息ひとつ。
 明日は祝日だが、結の誕生日でもあった。
 その事をすっかり忘れていた祐一にも非はあるが、結との関係は、プレゼントを贈り合うようなものではない。幼馴染み。学校の先輩と後輩。ただ家が近所で、子供の頃からよく一緒に遊んでいた。今でも買い物の荷物持ちとして付き合わされる。謂わば兄妹のような、そんな関係だ。
 しかしだ。
 結は明らかに『誕生日』の件について機嫌を損ねているし、何よりも学校の帰りで『待ち伏せ』していたのが気にかかる。
 ──こりゃ『誕生日プレゼント欲しい』って感じだな。
 祐一は歩を早め、結に並んだ。結は祐一から顔を背けた。
「誕生日、だよな」
 一瞬結の肩がびくっと震えたが、顔は祐一から背けたままだ。
「明日は休みだし。久し振りにどこか行くか?」
 普段から良く結の買い物に付き合わされている祐一は、軽い気持ちで結に声をかけた。
「……行く」
 短く、強い意志の籠もった返事。
 結は立ち止まり、祐一に向き直った。
「誘ったのは祐一だからな。だから明日のお昼とかも祐一の奢り。いいよな? それとプレゼン……いや何でもない」
「プレゼント?」
「それはいいって!」
「欲しいのか?」
「だから要らないってば!」
 ──相変わらずの天邪鬼だなぁ。
 結は何か欲しいものがあると、その欲しいと思う心を押し殺して「要らない」と言い張る。しかも強情に。母子家庭という環境がその要因なのかも知れないが、忙しい結のお母さんに替わりあちこち付き合わされてきた祐一には、結が言う「要らない」は、イコール「欲しい」事だという図式が出来上がっていた。
「うーん。小遣い前だからなー。あまり高いトコには行けないぞ?」
 祐一は右手を首筋に当て、困ったような表情を浮かべた。とは言え、内心そんなに悪い気はしない。年頃の女の子を連れて歩くのだ。自分はともかく、結のクラスメイトに誤解されなければいいけどな、程度の困り方だった。
「まぁ、じゃ明日な」
「うん!」
 結は先ほどまで斜めになっていた機嫌を、どこかに吹き飛ばすような笑みを浮かべた。

「と言ったものの……」
 結を家に送り届けた祐一は、自宅の玄関口で財布の中身を見て絶望していた。
「こりゃ小遣いの前借りでもしないと結の機嫌が傾くな」
 となると取るべき手段はひとつしかない。
 母──沙樹(さき)との小遣いの前借り交渉だ。
「気が乗らない……」
 そうボヤきつつ、玄関のドアノブに手をかけた。
「ただいまー」
 と、ドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。
 どうやら家族はお出かけしているようだ。
 ──何ですとーっ! それは困る!
 祐一は玄関脇に隠してある鍵を使い、家に飛び込んだ。
 そしてキッチンで書き置きを見つけた。
『今日は町内の役員会があるから遅くなる。夕ご飯は適当に作って食べるように。母』
「何だとーっ!」
 祐一は誰もいないキッチンで吠えた。
 ──これじゃ資金繰りが!
 祐一は焦った。
 遅くなるという事は、きっと『役員会』と称した飲み会に違いない。
 それでは交渉しようにも相手が悪い。酔った母親ほど交渉に困る人物はこの世にいない。
 ──何か別の案を立てないと。
 祐一は必死に考えた。
 今必要なのはお金だ。
 お金がなければ結の『ご機嫌』を維持出来ない。
 明日顔を合わせて、今自分が資金難である事を結に告げて、それで納得してもらえるだろうか。
 ──無理だ。
 今までの経験則がそれを物語っていた。
 その時だった。
 何かが祐一の思考に入り込んできた。
 いや、妙案を思いついたとでもいうべきかも知れない。
「……そういや親父の部屋、骨董品だらけだよなぁ」
 父親である裕次郎(ゆうじろう)は古物の鑑定を生業(なりわい)としている。店舗は構えていないが、顧客が望めば裕次郎の部屋は即座にショールームに変貌する。どうやってあの雑多に積まれている骨董品を片付けるのかは不明だが、オンとオフで部屋の様相がまるっきり入れ替わる。
 そんな事もあって、あまり裕次郎の部屋にはあまり出入りしないのだが今日は特別だ。と自分に言い聞かせた。
 そして願った。
 結への『誕生日プレゼント』になるような品が転がっている事を。
 祐一はそろそろと階段を上り、裕次郎の部屋の前で立ち止まった。
 都内の一軒家に似つかわしくない重厚な扉は、来訪者に向け入ろうという気さえ起こさせない。何かに気圧される、そんな雰囲気を放っていた。
 ──いいか、俺。これは緊急事態なんだ。ここで何かを見つけないと明日色々困るんだ。
 祐一は意を決し、ドアノブに手をかけた。
 途端。
「おわっ!」
 ビリッと何かが祐一の体を突き抜けた。
「せ、静電気か?」
 祐一はおっかなびっくり、そろそろとドアを押した。
 ギギギ、とその重厚さを後押しするような音を立て、扉が開いた。
 滅多に入る事のない部屋だが、祐一はいつも思う。この部屋だけ空気が違う、そんな違和感を感じる。どこか静謐で神聖で、まるでそこにいてはいけないと何かに拒絶されるような感覚。
 そんな雰囲気が部屋を満たしていた。
 しかし祐一はそれどころではない。いつ帰ってくるか分からない裕次郎に見つからないうちに、結へのプレゼントを物色しなくてはならないからだ。
「お、お邪魔しまーす……」
 つい声に出さずにはいられない。
 空気が重い。
 何者をも拒む重々しい雰囲気。
 部屋にあるいくつもの棚には、大小、古今東西、様々な骨董品が雑多に積んである。
 床にも。そして机にも。
「良くもまぁ、俺に部屋を片付けろとかいうもんだな」
 自分の部屋の惨状を棚上げして、裕次郎を非難する祐一だった。
 ──ん?
 何気なく部屋を見回した祐一の目に、あるものが飛び込んできた。そしてそれは祐一の視線を絡め取り、他の品に視線を移す事を許さない。祐一はそんな強烈な印象に襲われた。
「何だこれ?」
 一歩、また一歩と机に近付く。
 そして『それ』を手に持った。
 それはカレイドスコープ。
 全体に金細工が施してあり、宝石らしき装飾が目を引く。もちろん祐一にはそれが本物なのかどうかは分からない。
 ただ金細工や本体のくすみ具合から見るに、相当旧(ふる)いモノなようだ。
「万華鏡かぁ……」
 祐一はのぞき穴を目に当て、胴体部分をくるくると回した。
 回す度に幾何学な模様が複雑な変化をし、不可思議な色彩を象る。
 照明の角度によっても模様が変化する。
 祐一は決断した。
 ──これだ!
 祐一はカレイドスコープとその下にあった布袋を引っ掴み、そそくさと部屋を後にした。




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魔女の家(試し読みVer)


電子書籍で配信されている「魔女の家」の冒頭のサンプルです。





「だからあんたは鈍くさいんや!」
 いきなり女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
 周囲よりちょっとだけ盛り上がった丘の上、そこには鬱蒼と木々が生い茂っていた。その隙間から覗く、見るからに旧い建物。屋根はちょっと歪んだ三角錐。よく見ると壁も微妙に傾いている。にも拘わらず、アルミサッシや玄関ポーチはきっちり水平に取り付けられている。なんとも違和感の多い洋館だった。
 どうやら先ほどの怒鳴り声はそこから聞こえてくるようだ。
「何よ! ちょっと間違っただけじゃない!」
 窓を開け放しているのか、少なくとも二名の女性が口論を繰り広げている様子が声が丸聞こえだ。
 だが周囲の木々は、そんなことはお構いなしに風に葉を揺らしていた。
「ちょっと待って。試しに──」
 訂正。三名、いや──。
「まぁまぁ。悠里(ゆうり)も悪気があったわけじゃないし。楓(かえで)もそんなに目くじら立てなくてもいいだろう?」
 そこで何があったのかは不明だが、悠里という女性が何かをしでかし楓という女性がそれに対して怒っている。それを他の二名が宥めている。そんな状況らしい。
「じゃ沙樹(さき)が食べてみい? 悠里が何をしたか分かるで?」
「いや、私は遠慮する」
「なんでや!」
「普通、砂糖と塩間違えるか?」
 折しも今はお昼時。
 どうやら悠里が昼食を作り、その際調味料を間違えた。それが事の真相らしい。
「ほら見てみい」
 勝ち誇ったような声が洋館から漏れ聞こえた。
「あれ? 案外美味しいよ? これ」
「アリス! あんたは味覚音痴か! これのどこに美味しい要素が入ってる言うんや!」
 その四者四様な会話劇は、突然割り込んできた男性の一声で終焉を迎える。
「あー君たち。悠里君が砂糖と塩を間違えたくらいで大騒ぎしないように。家の外まで響く。近所迷惑だろう?」
「五代(ごだい)さん、一番近い隣の家までまで一〇〇メートルはあるで?」
 五代と呼ばれた男は、楓のツッコミを平然と無視した。
「それより『仕事』が来てる」
「それホンマですか? 五代さん?」
「僕が君らに嘘をついてどうするんだ?」
「そらそやな」
 楓の声のトーンが柔らかくなった。どうやら溜飲を下げたらしい。
「じゃ今度は『仕事』の話で盛り上がりましょうかね」
「何で敬語? しかもなぜに標準語?」
 今度は悠里がツッコむ番だった。
「やかましいわ! ウチかて場の空気くらい読むんや!」
 かくして。
 旧い怪しげな洋館は、今日も騒がしい午後が始まろうとしていた。



第一話 魔女たち


「それで『仕事』言うんは……」
 関西弁を駆使する二八歳、つまりアラサー世代の女性、三谷楓(みたに かえで)は、後ろに束ねた黒髪をふりふり、物欲しそうな目で五代を見つめた。
 頭一個分くらい身長差があるので、どうしても上目遣いになる。何かおねだりをしている。そんな風に見えなくもない。
 だが五代は態度を崩さず、極めて事務的に『仕事』の内容を端的に言い放った。
「今回の『仕事』はストーカー調査です」
 五代は一階一二畳のリビングに勢揃いした女性四人に向け、『仕事』の説明を始めた。
 彼女らは、それぞれ思い思いの場所に座ったり壁にもたれかかったり。誰一人としてリビングに置いてあるソファに座っていない。この四人が結束して何かを解決する、そんな姿勢にはとても見えなかった。
「ストーカーとはまた、地味な仕事だな」
 リビングの入り口の壁にもたれかかり、吊り目気味な目を閉じてため息を吐くのは、彼女たちの中で最年長二九歳の一条沙樹(いちじょう さき)だ。
 彼女は五代が不在の時のリーダー的な立場だ。と言うか自分でその場を仕切るので、自然とそんな立ち位置になっていた。
「そんなのは警察に任せればいいのでは?」
「沙樹君の言うことはもっともだ」
 五代は沙樹の反論を気にするでもなく『説明』を続けた。
「この案件が警察ではなく、『魔女協同組合』管轄にされたのは理由があるんだ」
「はいっ! 質問っ!」
 二階堂悠里(にかいどう ゆうり)、(二七)がやや茶色がかったさらさらヘアを揺らし、ダイニングテーブルから元気よく挙手した。
「まだ説明が途中なんだが……」
 五代が口の中でごもごもと呟くが、悠里は気にも留めなかった。
「ストーカー調査ってことは、依頼人は女性ですよね? 年齢とか細かな情報はあるんですか?」
「それはだな」
 五代は言葉に詰まった。実は詳細がまだ『魔女協同組合』から届いていないのだ。
 特に今回のような民間人相手の案件の場合、『魔女』が介入する上で慎重な審査がなされる。ストーカーという事件性の高い案件であるが故、取り急ぎ『仕事』として処理するよう命が下ったが、その対象や取り巻く環境等の詳細は組合で審査中だ。
「ええとだな。それは追々情報が届くことになっている」
「えぇ? 誰が被害者なのかまだ分からないんですかぁ?」
「被害者、というかまだ被害は出ていないからその言葉は適切じゃないな」
「でもストーカー調査って……」
 悠里はぷうーっと頬を膨らませた。
「とにかく話を進めていいかな?」
「ちょっと待って下さい」
 リビングの隅にある小さな机で水晶玉と睨めっこしていた金髪碧眼の女性、四堂(しどう)アリスが五代の説明に割って入った。
「……今水晶玉見ていたら、女性が誰かに追われてる、そんな映像が映りました。今、壁に映しますね」
 低いうなり声のような音がし、リビングの壁に何やら不安げに後ろを振り向きながら家路に就く女性の姿が大写しになった。整った顔立ちの女性が恐怖に怯え後ろに束ねた髪を振り乱している。アリスの満足げな表情から映像に多少手を加えたようだ。
 その映像を観るに、それは深夜の出来事らしい。
「今回のお仕事の対象はこの方ですか?」
「……ああ、そうだ」
 すっかり出鼻をくじかれた五代だった。


「一つだけ分かっている事がある」
 五代は何とか主導権を取り戻そうと、咳払いを一つ。
「さっき『ストーカー被害』じゃなく『ストーカー調査』と言ったのには理由があるんだ」
 壁面に映っている女性は一時停止され、その表情から恐怖の色が見て取れた。
「この女性を恐怖に貶めている『ストーカー』だが、正体が不明なんだ」
「不明?」
 悠里が首を傾げた。
 ストーカーと言っておきながら、そのストーカー自体が正体不明とはどういう事か?
「それが警察で対応出来ない理由というヤツか?」
 沙樹が五代の返答を先回りした。
「この女性の身辺調査をすれば何人かピックアップ出来るだろうが、そもそも正体不明とか言われてしまえば、警察ではお手上げだろう」
 五代はしたり顔で頷いた。
「まぁ沙樹君の答えでほぼ正解だ。実際、その辺の情報はまだ警察でも掴んでいない。組合もそうだ。今頃『占い師』が総出で情報収集にあたっているだろう。そこでだアリス君。君ならある程度『視える』だろう?」
 五代はアリスに向き直った。
「どうだい? 何か『視える』かい?」
 五代は期待の籠もった眼差しでアリスを見た。
「いいえ」
 アリスはきっぱりと言い切った。
「ぜ、全然『視えない』?」
「はい」
 即答だった。
「……君は『占いスキル』を持ってるからちょっとは期待していたんだが……」
 どうも五代という男はあまり綿密な計画を立てるような性格ではないらしい。一八〇センチ近い体格のせいか、頭まで血が上っていないのかも知れない。
「五代さん、あんた大ざっぱにも程があるわ」
 楓が呆れたと言わんばかりの態度で五代を睨めつけた。
「と、とにかくだ」
 五代は咳払い一つで、場の雰囲気を変えた。
「調査対象となる女性はこの方だ。名前は金堂幸(こんどう ゆき)。そこで早速だが仕事にとりかかってもらおうと思う」
「情報も何もなしでか?」
 沙樹はズバズバと五代に突っ込んだ。
「大体ストーカー被害の調査なんて言ったら、本人の行動にこちらも合わせなければならない。私達はそんなに暇じゃない」
「何も君らが張り付く必要はないさ」
 そういう五代の目は悠里を向いていた。
「へ? 私?」
 全員の目が悠里に向けられた。
「ああ、そうだな。悠里なら」
「せやな。使い魔を張り付かせるんやな」
「そう言う事だ」
「ちょっ、ちょっと勝手に決めないでよ!」
 悠里は勝手に進む物事にタンマをかけた。
「そんないきなり振られたって困るし! 私だって予定があるし!」
 そんな悠里に、五代は冷静に言い放った。
「沙樹君は組合経由で来た警察関連の案件を二件抱えている。楓君はテーマパークのバイトがある。アリス君は的中率はともかく占い師の仕事がある。さぁ。残るのは一体誰かな?」
「ぅぐ……」
 実際、悠里は暇をもてあましていた。魔女ではあるのだが、使い魔を使役する以外ろくな術が使えない彼女は、沙樹のように空間転移で犯人を追ったり隠密調査したりは出来ない。
 楓のように、テーマパークで攻撃魔法を『手品』と称して、派手にドンパチやって観客を愉しませる事も出来ない。
 そしてアリスのように、的中率その他諸々が一〇〇パーセントではなく結果にムラがあるとはいえ、占いが出来るわけでもない。
 せいぜい公園で野良猫に餌付けしたり、カラスに生ゴミを狙わないよう説得するくらいだ。
「と言うわけだ」
「まだ何も言ってません!」
 悠里は精一杯の抗議をした。
「だが他に適任がいない」
「いやその、だからって……」
「君なら使い魔をちょちょいと金堂さんに張り付かせて、それを監視していればいい」
「や、だから……」
 悠里は粘った。
 だが五代は揺るがなかった。
「それともう一つ。今現在この家にいて何も『仕事』をしていないのは君だけだ」
「うぅ……」
 五代プラス四人の魔女の視線が注がれる。
 退路はなかった。


「あー……。気が重い……」
 悠里は、数少ない情報源である金堂幸の住所を教えてもらい、彼女に会うべく電車に揺られていた。
 悠里達が住む『家』は僻地だ。
 街の中心部に出向くには、バス、電車、そして徒歩を駆使しなければならない。
「面倒くさいぃ……」
 悠里は魔女だ。魔女であるからには魔女協同組合の仕事を請け、責任を持ってそれを遂行する義務がある。その見返りとして幾ばくかの報酬と『家』に住む権利を与えられる。独立して街の中心に住んでいる魔女もいるが、今『家』にいる悠里を含んだ四名の魔女はそこまでの稼ぎはない。つまり管理人かつ世帯主である五代の家に居候している身なのだ。
 しかも基本的に人間嫌いである悠里は、可能な限り家から出ない。つまり仕事をしたがらない。
 これではいつまで経っても理想とする生活には辿り着かない。
「あーあ。一人でノンビリと猫と戯れたい……」
 もちろんそんなことが許される程世の中は甘くはない。
 特に魔女には。
「魔女って言ってもなぁ……」
 悠里は、バッグから古くさい、クレジットカードサイズの羊皮紙を取り出した。
 魔女協同組合認定証。そこには『魔女二級』と書かれていた。
 それは悠里が魔女である事を証明する唯一のモノだ。
 だがそれを世間様に提示した所で、何かもらえるとか、何かの証明になるとか、そんな事はない。
 何それ?
 そんな事を言われるのがオチだ。下手すれば職務質問の憂き目に晒される。
「何で私、魔女なんかやってるんだろう?」
 向いてないのかなぁ。
 常日頃からそんな思いを抱いている悠里は、他の三人の魔女が羨ましい。
 悠里の力は弱い。せいぜい使い魔を使役する程度だ。楓のように攻撃魔法をバンバン使うような真似は出来ない。
 加えて言うなら、大学時代の同期が次々と結婚していっている現実に危機感を感じていた。主に財布に。そして自分の境遇に。
「こんな事してたら、素敵な出会いなんかあるわけないし」
 『家』に帰れば三人の魔女と家主の五代。
 五代は魔女協同組合の組合員で、年齢その他の経歴は不明とされている。
 外見はそれなりで、年齢もまだ三〇かそこらに見える。だが実際は違うらしい。
 そもそも結婚しているのかしていないのか。常に『家』にいるわけではないので、どこかで結婚していてもおかしくはない。
 それ以前に五代は悠里のタイプではない。あくまで仕事上の関係で、いわば上司だ。そこに恋心が入り込む余地は微塵もない。
 ため息を吐き出し、まだ見ぬ白馬の王子に思いを馳せる悠里だった。





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2017/06/26

天球儀(サンプル)

 マイナビ出版より配信中の学園ファンタジー、「天球儀」の「序章」、「第一話 そして僕は入部した」をサンプルとして掲載します。
 面白いなぁとか思った方、是非ご購入を!w





序 僕の夢

 小学生の頃、僕は将来の夢という題で作文を書いた。
 内容は殆ど忘れてしまったけど、これだけは覚えている。

 『天体観測をしたいです』

 小学生が「天体観測」なんて言葉は普通使わない。せいぜい「星を眺める」とか「月を見たい」「行きたい」程度だ。それを僕は、はっきりと「天体観測」と書き切った。
 夢だったからだ。
 だから僕がこの学校を選んだ理由はとてもシンプルだ。
 もう一目惚れみたいな物だ。
 県内で唯一『天文部』がある。学校紹介のパンフレットを見た瞬間から、僕の目は校舎の上に鎮座する天文台に釘付けだった。
 小学生の時に父親から買ってもらった天体望遠鏡。そのレンズで切り取られた僅かな空間。そこには星々があった。宇宙があった。
 
 とにかくドキドキしたのだ。





第一話 そして僕は入部した


「ほらー席に着けー」
 担任と思われる男の先生が声を張った。
 教室では新しい環境に戸惑いながら、自分の席を探すクラスメイトの姿があった。
 僕もその一人だ。
 入学式が終わりクラス分けされた。僕は一年五組だった。
「今日からこのクラスの担任になる高崎だ」
 高崎(たかさき)先生は、チョークで黒板に自分の名前を書いた。
 角張った字だった。
「じゃ、自己紹介な。出席番号順から順次、よろしく」
 高崎先生──角刈りでジャージだから、きっと体育教師だ──はそう言うと、教卓に座り込んだ。
 後は勝手にやってくれ。
 どこか投げやりな態度だった。
 大丈夫なのかなこの人は?
 そんな僕の不安なんて気にも留めず、クラスの皆は勝手に自己紹介を始めた。
「中学の時サッカー部でした。だからここでもサッカー部に入りたいです」
「趣味は手芸です。でも体を動かすのが好きです」
「料理は男のする事ではないと考えています。でもコロッケを揚げるのは得意です」
 等々。
 色んな人が色んな事を自分で紹介した。
 出席番号は氏名の五十音順だ。僕は苗字が『渡井(わたらい)』なので一番後だ。
 そして僕の順になった。
 席を立つとと四十名弱の視線が注がれた。
 僕は人前で喋るのはあまり得意ではない。しかも同年代とはいえ、見知らぬクラスメイト。ちょっと萎縮してしまう。が、これは通過儀礼のようなものだと気持ちを奮い立たせた。
「は、初めまして。僕は、渡井悠久(わたらい ゆうき)です。悠久のユウの字に久でユウキと読みます。趣味は天体観測です。なので天文部に入りたいと思っています。えーと、とにかくよろしくお願いします」
 短いけれどまぁ良いや。他に言う事もないし。
 僕はぺこりと頭を下げ着席した。
 ところが。
 クラスの全員が黙ったまま僕を見ていた。
 何だろう? 何かまずい事言ったかな?
 気まずい沈黙を破ったのは高崎先生だった。
「渡井、一個抜けてるぞー」
「は、はい?」
「出身校」
「しゅ、出身校ですか?」
「そうだ」
「え、えーと、出身校は隣町の第二中学校です」
「そこに天文部はあったのか?」
「はい? いえ、ありませんでした」
「じゃあお前はどこの部に所属していた?」
「陸上部です」
「ほほぅ。それでこの高校では陸上部には入らないのか?」
 持って回った言い回しだ。遠回しに陸上部への入部を誘っているんだろうか。
 でも僕は決めている。この学校を選んだ理由。今の僕はそれが全てだ。
「はい。その……天文部があるので」
「渡井」
 高崎先生は立ち上がった。
「俺はこの学校で陸上部の顧問をしている。俺はな渡井。お前を知っている」
「え?」
「お前、中体連の短距離走で準優勝して全国大会行っただろう?」
 その言葉にクラス中がどよめいた。
(全国大会だってよ)
(すげぇな)
(何で天文部なんだ?)
「この学校はな、それなりに運動部の活動に力を入れていてな。多分この後、運動部の先輩方のスカウトがどっさりやって来る」
「は?」
「それとここは中高一貫教育でな。中学からそのまま上がってきたヤツが多い。大半はそうだろう。このクラスに至ってはお前以外中等部から来た連中ばかりだ」
「はぁ」
「ここの中等部はな、陸上部に限らず運動系の部はあまり活躍しているとは言えない。高等部もそうだ。だからお前の実績は、運動部の連中からすれば大注目だ。それなのにお前は、よりによって天文部に入るとか言いやがる。あの『天文部』だぞ?」
 『あの天文部』?
 『あの』って何だろう?
「知っているヤツは知っているだろうが……いや、お前以外は全員知っているな」
 どうも回りくどい言い方をする先生だ。
「悪い事は言わん」
 高崎先生は僕に歩み寄り肩に手を置いた。
「あの部だけは止めておけ。あの『天文部』だけは」 
 その時だった。
 教室の扉が、バンっと勢いよく開いた。
 そこには白衣の女性が立っていた。
「高崎! お前、余計なこと言うな!」
「げ、先生……」
 突然現れ由利川先生と呼ばれたその白衣の女性。
 その印象は強烈だった。
 とにかく偉そう。
 同僚と思われる高崎先生を名前で呼び捨て、さらに言葉は命令形だ。
 そして何より奇麗な女性だった。
 長く黒い髪が印象的で、白い肌がさらにそれを引き立てている。
 年齢は、ぱっと見て二十代後半だろうか。自信はないけど。
 その由利川先生は、つかつかと高崎先生の前に歩み寄り、真っ正面に立って胸を張った。
 肩にかかっていた髪がさらりと背中に流れた。
「せっかく貴重な戦力が自ら入りたいと言っているのに、それをお前の都合でねじ曲げることはこの私が許さん」
 ──何その貴重な『戦力』って?
「い、いや、これは……」
「それに何だ。入学当日のオリエンテーションで担任の特権を利用して自分の部に勧誘するなど、それは職権乱用だ」
「いや、そういうわけではなくてですね……」
「なんだ、男のくせに言い訳するのか?」
「い、いや言い訳ではなく」
 高崎先生はしどろもどろに『言い訳』をした。どうやら由利川先生に頭が上がらないらしい。白衣を着ているので理科か何かの先生だろうか?
「君」
 由利川先生が僕を見た。
 鋭い視線が僕を射抜いた。その眼力だけで何かを壊しそうだ。
「この学校に来て天文部に入りたいなんて言うのは君くらいだ。歓迎する」
「由利川先生!」
 今度は高崎先生の番だった。
「由利川先生、あなただって俺を差し置いて勧誘しているじゃないですか!」
「それがどうした」
 由利川先生は怯まなかった。
「本人の希望と学校側の要望をすり合わせたまでだ。両者の利害は一致している」
「いや、そういう問題じゃなくてですね……」
「それにだな……」
 由利川先生は急に小声になった。高崎先生にだけ聞こえる声で何かを言っているようだ。内容は分からないが、高崎先生の狼狽し、怯えた表情を見ると何となく分かった気がした。
「さて君」
 由利川先生が僕に向き直った。話は終わったようだ。高崎先生は明後日の方を向いて何かをぶつぶつ呟いていた。
「はい」
「名前は?」
「渡井悠久です」
「──よし。ワタライ」
「はい」
「放課後、保健室に来るように」
「はい?」
 保健室?
 今、保健室って言わなかったか?
「聞こえなかったか?」
 由利川先生が僕を睨んでいる。
 一切の有無を言わせない視線だった。
「ほ、保健室ですか?」
 多分僕の声は裏返っている。由利川先生の視線を受け止めるだけで精一杯だ。
「そうだ」
「天文部の話じゃないんですか?」
「天文部の話だ」
 天文部への入部の件と保健室がどうしても繋がらない。
 そもそも。
 目の前にいる由利川先生と天文部の接点が見えない。
 困った。
 僕が困っていると、どうにか立ち直ったらしい高崎先生が口を挟んだ。肩で息をしていた。由利川先生の『呪いの言葉』が相当堪えたらしい。
「わ、渡井、よく聞け」
「はい?」
「ここにいる由利川先生は、天文部の顧問だ」
「は? こ、顧問?」
「そして由利川先生は、養護教諭──保健室の先生だ」
 ──保健室の先生が、天文部の顧問?
「やっと分かってくれたようだな」
 由利川先生は満足そうに微笑んだ。
 何に満足したのかは分からないが、あの突き刺さるような視線ではなくなった。
 でもひとつだけ疑問がある。
 それは由利川先生の登場タイミングだ。
 僕が「天文部に入りたい」と言い、高崎先生が陸上部への勧誘を始めた途端、由利川先生が現れた。まるで教室の前に張り付いて会話を聞いていたかのような絶妙さだった。
「細かい話は後だ」
 じゃあな。
 そう言って由利川先生はとっとと教室を出て行った。
 疑問を聞く間もなかった。
 そっと高崎先生を見ると、何やら同情めいた表情を浮かべている。
「……渡井。もうお前は戻る事は出来ない。貴重な高校生活を自ら放棄するとは……残念だ」
 がっくり肩を落とす。
 見回すとクラス全員が同じ表情をしていた。
 そんなに大変なのか? 天文部が?
「先生?」
「何だ、渡井?」
「僕はもしかして何か大変な事をしたんですか?」
「俺が言うより実際に見た方が早い。それに俺にはもうどうする事も出来ん……申し訳ないが……」
 そう言うと高崎先生は教卓に戻り、クラス全員にこう言った。
「我がクラスで一名の尊い犠牲が出た。だが気にする事はない。いいか。気にするな。俺が言えるのはここまでだ」
 どこか決然とした口調だった。
「──さて、自己紹介も終わったな。今日はここまでだ。明日からは新入生気分を抜いてしっかり勉学に励むように。それから渡井。いいか、決して……いやいい。その内分かる。何かあったら相談しなさい」
 何が分かるんだろうか?
「以上だ。ついでだからクラス委員も決めてしまおう。渡井、お前がやれ」
「は?」
「どうせそうなる。それなら早い方が良い」
 意味が不明だ。
 でも僕を除くクラスの全員が賛成の意、つまり僕をじっと見ていた。
 ──もうヤケだ。
「分かりましたよ。やりますよ、もう。起立!」
 礼。着席。
 かくして僕はクラス委員に抜擢された。
 でもそれだけで済むとは思えなかった。
 もっと大変な何かが目の前に現れる。そんな予感があった。
 そんなもやもやしたモノを肌で感じつつ、僕は久しぶりのため息をついた。
 ──受験の時以来だなぁ、この感覚。
 
 *

 ちなみに高崎先生は国語の教師だった。
 人は見かけによらないものだと、改めて実感した。

 *

 オリエンテーションが終わり、僕は保健室に向かった。
 入学当日に保健室に行くなんて思いもしなかった。
 少なくとも僕には保健室なんて無縁の物だった。
 小学校、中学校と、風邪をひいた事はない。
 怪我して保健室に駆け込んだ事もない。
 だから勝手な想像があった。
 綺麗な女性の先生が暖かく出迎えてくれる。本当に年齢相応の自分勝手な妄想だ。
「失礼します」
 僕は保健室の扉をノックし、一応断ってから入室した。
「おう、来たか」
 保健室には由利川先生と僕以外誰もいなかった。
 かすかに消毒薬の匂いがした。
 由利川先生は長い髪を後ろで束ねていた。まぁ保健室の先生なので、消毒薬やらガーゼやらを扱う上で邪魔になるからかも知れない。
 その上、なぜかメガネをかけていた。
 ──さっきはかけていなかったのに?
 由利川先生は僕の視線が気になったのか「ああ、これは伊達だ」と勝手に答えた。
 色々理由がありそうだが、深く聞いてはいけない。そんな気がした。
「まぁ座れ」
 由利川先生は、僕に脇にあった椅子を勧めてくれた。
 椅子に座り改めて部屋の中を見回す。
 どこにでもあるワークデスクと椅子。薬品が入っていると思われる棚。そしてカーテンで仕切られた向こう側にベッドが二つ。
 きっとどこにでもある保健室に違いなかった。
 そして由利川先生は綺麗な女性だった。だから半分は僕の想像通りだ。
 問題は残り半分。
「さて」
 由利川先生は椅子をくるっと回して僕に向き直った。
「何か飲むか? と言ってもコーヒーしかないがな」
「じゃあ……コーヒーで良いです」
「お前は素直で良いなぁ」
 由利川先生は妙な感想を述べ、マグカップにコーヒーメーカーのデキャンターからコーヒーを注いだ。コーヒーはあまり詳しくはないが、コーヒー独特のいい香りが部屋に漂った。
 後で知ったのだが、これがどれほど危険な行為だったのか、この時点では知る術はなかった。
「この書類にサインしてもらおうか」
 そう言って一枚のA4用紙を差し出された。
 何だこれ?
「入部届けと誓約書だ」
 ──誓約書?
「我が部の伝統でな。これにサインしてもらわないと天文部への入部は許可出来ない」
 僕はその入部届け兼誓約書に目を通した。
 そこには、氏名と生年月日、血液型、住所、そして緊急連絡先を書く欄があった。さらに下の方には条文らしきものが細かい字で書かれていた。

 曰く。
 ・部長、副部長、部員を呼ぶ時は名前で呼ぶ事。
 ・校内で部員と会ったら挨拶をする事。
 ・部で機密扱いとなっているものについては口外しない事。
 ・人命、人権に関わる重大な事はしてはいけない。
 ・他は何をしても良い。

 何だこれ?
 機密扱いとか人権って何だ?
「ペンを貸してやろう。それにサインすれば、お前は今日から天文部員だ」
 由利川先生はなぜか勝ち誇ったようにそう言い放った。
 ペンを握る僕の手が震える。もしかすると自衛本能なのかも知れない。得体の知れない『何か』と契約しようとしている、そんな感覚が襲って来た。
「せ、先生?」
「何だ?」
「この書類はどういう意味があるんですか?」
「意味も何も」
 由利川先生が身を乗り出す。
 綺麗な長髪からいい香りがした。
「そこに書いてある通りだ。それ以上の意味はない」
「この機密扱いって何ですか?」
「それは機密だ」
 言い切られた。
「それに人権って……」
「お前は日本国憲法を知らないのか?」
「はい?」
「日本国民は基本的人権の尊重と、最低限の文化的な生活を保証されている。それはそう言う事だ」
「はぁ」
「大丈夫だ。何も取って食いはしない」
 何か恐ろしい事を言われた気がした。
「さぁ、さっさとサインしてくれ。私はこれでも忙しいんだ」
 僕は急かされたようにその『入部届け兼誓約書』にサインした。
「よし。これで君は天文部員だ。入部を許可しよう」
 由利川先生は話はこれまでとばかりに、デスクの山積してある書類に取り掛かり始めた。
 まるで僕の事など目に入っていない様子だ。
 ——僕はこの後どうすれば良いんだ?
 まさか天文部の部室が保健室な訳はないので、部活動をするならそこに行かなければならない。
 でも目の前の顧問の先生は、僕に目もくれずせっせと書類を捌いている。
 僕は途方に暮れた。
「ん? 何だお前。まだいたのか?」
 先生それはあんまりでは……。
「サインはしたのだからもう帰って良いぞ? それとも、せっかくだから部に顔を出すか?」
 ──待ってました!
「はい! ぜひ!」
 僕は意気込んで、元気良くそう答えた。
「部室は保健室を出てすぐの階段を階段をひたすら昇ればいい。この校舎の一番上だからな、必ず見つかる」
 案内してはくれないんですね……。
「……はい、それでは失礼します……」
「おお。よろしくな」
 由利川先生は扉を開けて一礼する僕に背を向け、手だけ振ってよこした。
 大丈夫なんだろうか?
 不安だけが膨らんで行った。

 *

 部室への道のりは確かに迷う事はなかった。
 由利川先生の言う通りひたすら階段を昇ると、屋上に通じる小さな踊り場に出た。
 そこには校舎と屋上と天文台を隔てる扉が二つあった。
 一方ははめ込んである窓から屋上が見えた。
 だから残るもう一方が天文部の部室だと思う。
 でも扉には何も書いていなし、窓もなかった。
「天文部とか、せめて星を見る会とか、何か書いてあっても良いと思うけどなぁ」
 僕は独り言ちたが、それで扉が開くわけではない。とにかくさっさと入ってしまおう。
 この扉の向こうには天文台がある。
 僕の自前の望遠鏡なんて、それに比べればおもちゃのようなものだ。ここの反射式望遠鏡ならもっと遠くの星を見る事が出来る。もっと沢山の星を見る事が出来る。
 それが叶う。
 僕は躊躇いがちに扉をノックした。
 ところがいくら待っても反応がない。
 あれ? と思ってもう一度ノックした。
 やっぱり反応がない。
 やむなくドアノブをひねる。
 鍵は閉まっていた。
 ──屋上側から見てみるか。
 僕は屋上に通じる扉を開けようとした。
 そちらの扉も開かなかった。
 まぁ学校が屋上を常時開放している訳はないので、当然といえば当然だ。
 今日は休みかな? でも由利川先生には部室に行けと言われたしなぁ。
 僕は天文部と思われる扉を、ちょっと強めにノックした。
 ドンドン。ドンドン。
 いくら叩いても反応はなかった。
 ──仕方ない、戻って先生に聞いてみよう。
 僕は保健室に戻る事にし、階段をとぼとぼと降りた。
 その間誰ともすれ違わなかった。
 静かだ。
 校内のどこよりもここは静かだ。
 昇っていた時は気にしなかったのだが、屋上に通じるこの階段は幅も狭く、壁には何も貼られていない。
 ただ冷たい床と冷たい壁があるだけだ。
 照明が暗いせいか、まだ日中なのに全体が薄暗い。
 一言で言えば不気味だった。
 僕は何かに背中を押されるように足早に階段を降りて行った。
 足を止めたら何かに取って食われそうだった。
 だから階段を降り切って、保健室の前で由利川先生と会った時は本当に安心した。
 ──良かった。ここは学校だったんだ。
 なぜそう思ったのは分からない。
 違う。何か違う。そんな感覚があった。この階段は学校ではない。僕は階段を振り返る事すら出来なかった。
「どうした、渡井?」
 由利川先生が怪訝そうな顔をした。
「部室に行ってみたのか?」
「は、はい。いえ……」
「何だ? どうかしたのか?」
 由利川先生の顔が曇る。
 メガネの奥にある目がすっと窄まった。
「いえ、階段が……」
「階段? ああそうか。入部の手続きがまだだったな……」
 由利川先生は、しまった、という顔をした。
「?」
「鍵が閉まっていたんだな?」
「は? ええ、そうです」
「お前、良く昇れたな」
「はい?」
「……まぁ良い。それなら今日は部活は休みだな。連中も何かと忙しいだろうからな。今日は帰っていいぞ」
 ──は?
 一気に日常に引き戻された。
 部室に行けと仰ったのは先生なのでは?
 由利川先生はそんな僕の視線を無視して、とっとと廊下の向こうに消えて行った。
 ──何なんだ一体?
 僕はがっくりと肩を落とし、そのまま帰路に就いた。

 *

 その日。
 家に着いても何か落ち着かなかった。
 夜になりベッドに潜り込んでも中々寝付けなかった。
 ──入学初日から何でこんなに不安があるんだろう?
 とにかく明日だ。
 僕は頑張って眠りに落ちた。 
 その晩──。
 とても嫌な夢を見た気がした。




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